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かやくご飯report

審判との出会い 1

「お父さん、今日お隣の黒川さんから町内の少年野球チームに入らないかと、ユニフォームを頂いたの」。
それは、長男が小学校に入学した昭和59年(1984年)4月のある日の妻の言葉です。今想い返せばこの
一言から私の審判員人生が始まったのでした。

 私達夫婦は、2学年ずつ離れた3人の男の子に恵まれ、それぞれベビー時から水泳教室に通い子供達の健康に気を使っていました。
最初は、健康のためと思っていても、泳げるようになると、今度はタイムが早くなるようにと、親の欲が出てきたりもしたのですが、
やはり親の血統か運動神経は優れずに「鈴木 大地」(ソウルオリンピック背泳ぎの金メダリスト)君にはとてもなれませんでした。

 今でもその血筋は母系の運動オンチと私は主張しています。妻は、子供時代から体育は苦手、女系家族のためスポーツはまるで興味が
なかったと証言しております。
 一方父親の私は、小学時代から「かけっこ」は、クラスで1番か2番、中学・高校時代は卓球部でクラブ活動をしていました。
“息子は母親の血統を大きく受け継ぐ”この説については、別途でやりたいテーマですね。

 小学校入学を機会に、長男には集団での生活(サークル活動)にいれさせたいとも考えていた矢先だったのです、
なんとタイミングの良いことでしょうか。しかも、もう一軒のお隣さんは、我が家と同じ3兄弟で、彼らは「ボーイスカウト」の活動を
していたので、「ボーイスカウト」か「野球」のどちらかに愚息をいれようと夫婦の会話があったのです。
(今も夫婦の会話...罵り合い、責任の擦り合いは、あります。)

 もし、あの時「ボーイスカウト」への誘いが早ければ、また違った出会いで、私や家族の人生も大きく変わっていたに違いありません。
きっと私達と野球が見えない赤い糸で結ばれていたのですね。(かなりキザな書き方で、運命論者風ですが…。)

 団塊世代の私には、「野球ユニフォーム」は憧れです。子供時代にとても家計が許せない高嶺の花だったからです。
 親が出来なかったことを子供に託したいとの気持ちもあったのでしょうが、長男が「野球」を選んだことを私が一番喜んでいたのかもしれません。

 ついに運命の、町内少年野球チーム「影取スターズ」(平成17年・2005年、隣町チームと合併して消滅)に長男は、入団することになります。
妻は、当初大変喜びました。少年野球は会費が安い(スイミングスクールと比較)し、毎週末には子供から開放されるからです。

 しかし、入団してから間もない5月の連休時に練習を見学に行って驚いたのです。
「息子がいない!!!」


審判との出会い 2

ピカピカの小学1年生、親の大きな期待と新しい教科書を一緒に自分の背中より大きなランドセルに入れて元気よく学校へ通学し始めました。(まるでランドセルが歩いているみたいに。)
 日曜日の早朝は、お隣のお兄ちゃんから頂いたダブダブのユニフォームを着て、ピカピカのグローブを自転車のカゴに入れ、ヨタヨタと集合場所の神社に元気出かけて行くようになりました。
 私たち夫婦は、彼が家を出る後姿を見送るだけです。あとはプロ(?)の指導者に全てを任せればいいと何の疑問ももちませんでした。
 夕方の帰宅後は、お決まりの質問攻め。 
親  「今日は、どうだった?おもしろかった?」
長男 「お菓子をもらったヨ、走って疲れたー」
親  「そう、よかったね」
長男 「ぼく、今日ヒットうったよ」
 ムム・・やはり父親の血筋もあったかと、目じりの下がる私、そして、はやくも頭の中ではドラフト契約金を算出、何という親ばか…。
 この後10年間、さらに弟たちまでも「ベンチウォーマー」の常連となって期待を裏切られてしまうとは、この時は全く考えていませんでした。
 入団して1ヶ月ほどした5月の日曜日、練習をしている近所の広場にそっと観に行ったのです。チビッコ選手と大人の指導者の姿はあるのに、わが長男の姿だけが見当たりません。心配になり近くにいた指導者の方に聞きました。
「この4月から入りました高橋の父です、お世話になります。ところで息子は?」(一応儀礼のことばですが、優秀な選手のつもり)
「あー、あの高橋君のお父さん。(えー、もうそんなに有名?)息子さんは、バックネットの横で寝ていますよ、疲れているのでしょう、そっとしてあげましょう」。 何、何、何、寝ている、これはどうしたことだ、やはり、妻の血統を多く受け継いだ息子か、何というショック!
いやいや、指導者に鍛えてもらえば、何とかモノになるかも…。そこでまた質問。
「指導しているコーチの皆さんは、専門の方々ですか?」
「いえいえ、私達も全員、選手の父兄です」
「え――、それでは、皆さんボ・ボ・ボランティア!!!」

「ちょうど今スタッフが揃っていますのでご紹介しましょう、こちらチーム代表のOさん、監督のNさん、コーチのSさん、当番のSSさん…」。
「これは皆さん、プロの指導者だと思っていましたので、失礼しました」。
(本当に思っていました…スイミングクラブではインストラクターにお世話になりましたので)。
 それならば。さらに一言。
「野球は、草野球ぐらいしかやっておらず、本格的なことは解りませんが、球拾いぐらいのお手伝いはさせてもらいます」。

 この一言がわたしの「運命」を決定的にしたのです。


審判との出会い 3

昨今、少子化で一家に3人のこども、それも男の子ということで、チームの存亡にかかわる選手集め(頭数合わせ)のチームには、「高橋家」は絶好の的だったようです。
 さらに、その父親をスタッフに入れれば、それは、願ったり叶ったりでした。今振り返れば、私の「お手伝いさせてください。」の一言は、思う壺、カモがネギをしょって鍋を提げ、調味料持参も同然でした。
寝顔をみての初観戦は大ショックでした。帰宅するなり妻との会話は…。
私  「大変だよ、息子は随分迷惑を掛けているぞ、指導者の方々は、皆さん選手の父兄でボランティアだそうだ。僕もお手伝いしなければ」
妻  「道理で会費が安いと思ったわ。あなたの性格は、でしゃばり過ぎるから心配だわ、こども達に野球を教えられるの?」
私  「学生時代は卓球部だったし、こどもの遊びだろう、何とかなるさ。息子の迷惑をみれば、手伝いは当然だよ」
妻  「仕方ないわね、息子がそんなに迷惑を掛けているなら当然ね、私も月1回の定例会に出るわ」

 このように、高橋一家は、少年野球の道へとハマっていっていくのでした。

 最初のころは、全てが新鮮で感動・感激の連続でした、小さい子が、投げ打ち走る姿はまさしくほほえましく、
何といっても試合でのエキサイトは、選手より大人達です。
 また,当時の指導者に素晴らしい方々がおられ、「勝負」よりもこども達のリクレーション的活動に重点が置かれていたのでした。

 私も神奈川県のリクレーション指導者の講習会を受講しまし、彼らからもこども達からもいろいろと学んだものです。
 夏の丹沢キャンプ、暮れの餅つき、体力測定会、町内対抗運動会への出場、6年生の送別会、納会等‥

 一方、肝心の野球の実力は限りなく低く、もちろん試合は、負けの連続、まわりのチームからは、「影取スターズ」を「影取ヘターズ」などと陰口たたかれ、こども達も学校では肩身の狭いおもいをしていました。

 当時の戸塚区少年野球チームは、数が多く200チーム以上。強豪チームがひしめきあっていました、地区大会で勝ち抜き代表になるなぞ夢のまた夢でした。
 そのような背景から弱小6チームで「小雀リーグ」が設立されたのですが、やはりそこでも、最下位争いが常連で、ハリウッド映画の「がんばれベアーズ」の全く日本版でした。
 このような「情報」は入団前にはなかったのですが、入った以上は息子の卒業まではやり抜こうと硬い決心をいたしました。
 しかし波乱万丈が待ち構えていました。


審判との出会い 4

最初は「球拾い」のお手伝から始まり、年が変わる毎に、低学年チームのスコアラー、コーチ、監督とチームの深層部に入って行き、重責を負うようになってきました。(会社では、出世できないのに…)

 そして、次第に少年野球チームの実態が見えてきたのです。選手の数、練習時間の問題、その内容、試合でのベンチワーク、チーム運営、父兄のバックアップ体制などなど。さらに監督会議への出席などで、他のチームの指導者とも顔見知りとなり、色々な情報が入ってくると、今度は他のチームとの実態比較も出来るようになって欲が出てきました。

「試合に勝ちたい!!」この気持ちが強くなってきました。野球教本、ビデオ、他チームの練習等を参考にし、最初は息子達とそして選手達とも「朝練習」を始めるようになりました、(でも星一徹やチチローになれなかった。)

 飽きっぽい性格の自分が、何故か「少年野球」に対しては、のめり込んで行きます。本当に野球が面白くて、子供達が好きだったのです。(親父の熱中時代の初期、今も熱は冷めません。ほとんど病気)今思えば、子供達には迷惑だったのかもしれませんが、次第にその練習の成果か、試合内容が変化してきました。
 その頃、(長男が5年生、次男は3年生、三男は1年生の全員補欠選手)、連盟から1チーム最低1人の公式審判員を所属するようにとの強い通達がきたのです。
私達親子が入部する以前には、チーム所属の審判がいたようでしたが、彼が退部したその後は、成り手も無くそのままの状態だったのでした。

 監督仲間からも、チームを強くするには、所属審判は不可欠とのアドバイスもあって、審判講習会の受講に私は、名乗りを上げたのです、(やはり、でしゃばり!!)
「全日本軟式野球連盟、神奈川県少年野球連盟学童部」ここが私の審判のスタートです。重鎮の「小泉三郎」先生からの直受講という幸運な出会いもあり、何とか東京の勤務後、横浜で10数回にわたる夜学授業と、最後の実技・3日課程を終えることが出来ました。そのとき、勤めながらの夜学が本当に大変なこと痛感したのでした。
(特に冬季は、寒い)
 はれて審判資格の免状を頂き、審判服や用具を揃えて(すべて自費)、さっそうと審判デビューしたのが、平成元年の早春です。
 年号が変わったと同様に、チームもこの年大きく変化しました。長年、チームを指導されてきた、代表、監督、コーチの幹部4名が同時に退部され、チーム責任者の後任に私が成らざるを得ない状況になってしまったのです。
 能力のない私に、チームの代表、上級生Aチーム(1軍)監督、所属審判、リーグの事務局長、さらに小学校PTAの副会長と、会社以外の仕事が私の肩にのしかかってきたのです。
そして事件が起きました。


審判との出会い 5

性格は直りません、今もって直線的・短気・思いこみが強くて多くの人に迷惑をかけて恥ずかしいかぎりです。 毎度のことで、妻からは、「学習能力の欠如」を指摘され続けています。

平成元年の6月の事件は、私たち家族に深い傷を残しました。

 チームは、役員が大きく入れ替わり、私への比重があまりに大きなものになったのです。私も、5年間に見たり聞いたりしたものから、「自分の理想とする少年野球チーム」を目指そうと情熱を振りまいていたように思います。
「文武両道」響きの良い言葉です、そして「楽しくて強いチーム」これが私の理想でした。実際、春の地区大会でAチームは
2部の準優勝、低学年も準優勝の好成績を上げることができました。しかし、若い母親達から采配やチーム運営に対する不満が表面化し、遂にスタッフの造反となって、私がチームを去ってゆくことになります。

 そばに相談やスタッフを諌める先輩がいなくなっていたのも不運でした。既に地域では、頭角を出しつつあった私に、他チームの指導者から
「絶対、少年野球から離れないように、折角公式審判員になったばかりでもあるし、他チームに所属するよう」との助言もされました。その時「うちのチームにいらっしゃい」と言ってくれた監督さん、代表者さんを一生感謝しています。
(本当に困っている時の助けは、大事で救われます。)

 恨み、苦しみ、悩みが交錯する中で出した結論が、1学期の終わる7月に、活動残り半年の長男だけはチームに残し、私と次男(4年生)、三男(2年生)は、隣町の名門チーム「東俣野アローズ」へ移籍して行きました。

 このチームのオーナーの野嶋さんは、とても素晴らしい人格者(私の恩師となりました)で、選手は勿論、スタッフ育成から連盟運営まで尽力されていて、常勝チームだったのです。また当時チーム代表の山口さん(都市対抗での社会人野球での名捕手だった人)とも良きコンビで私達を温かく迎えてくれました。

 シーズン途中の異常事態で、各方面に迷惑をかけましたが、この事件から多くのことを学びました、要約すると
1、 急激な変化は摩擦が大きい、徐々に変化さすか、又は根回しは十分に。
2、 組織運営は、母親に口出しさせるな。
3、 良き協力・理解者をつくり、協同して運営すること。
全く会社と同じですが…

 野嶋さんの下、「指導者として1から勉強し直す」事となり、その後7年間を過ごすのですが、またまた不運な出来事が待っていました。

審判との出会い 6

「野嶋」さんと、平成8年(1996年)の暮れに、次年度のAチーム(上級生)の監督就任を任される話になりました。三男坊も既に小学校を3年前に卒業し、地元のリトルシニア(中学生硬式野球部)チームに進んでいたのです。
 少年野球に携わり10年、東俣野アローズでお世話になって6年、もう一度上級生の部で監督の采配をとれる喜びと、今回は前回の失敗を繰り返さない覚悟をしていました。

 さらに後ろ盾に「大御所・野嶋」氏が居られるし安心もしていました。しかし、監督就任1ヶ月後の平成9年の正月、雨で足を滑らし、事務所の2階から落ちた際の傷がもとで、野嶋さんは帰らぬ人となったのです。
 地域での功労者「野嶋」氏のお葬式は、多くの人が見送りに来られました。私も子供達(選手達)の引率をしながら溢れる涙が止まりませんでした。又もや私は、公式戦をまえに大きな理解者を失うことになったのです。さらに、当時のチームは全盛時代と違い、子供達の数も激減して戦力的にも上部大会への進出が難しい時期でした。
 チームは、6年生二人、5年生六人、4年生四人、計12人の選手構成でした。
(この時代にわが愚息達がいたら、絶対レギュラーだったのに。生まれた時期が悪かったと妻は今も嘆いています、本人達の実力不足は棚に上げて!!) その年度、孤軍奮闘(出勤前の朝錬をやったり)したのですが、やはり今1歩上位に食い込むことが出来ませんでした。
 しかし、対戦相手からは、「来年が楽しみですね」と言われる戦い振りだったのです。きっと野嶋さんが生きていれば、もっと良い成績を残せたでしょうし、その後も私は「少年野球の指導者」の道を進んでいたかもしれません。

 翌平成10年度の新スタッフに、残念ながら私の監督継続の話はでませんでした。(このチームは、各年毎にスタッフを選出する方法をとっていたのです。)コーチ達からは、私の采配が物足りなく感じ取られたのでしょう。
 そして私も指導者への気持ちが萎えてしまい、審判の道を選んでしまいました。この時、三男坊もシニアを卒団しており、私は念願の硬式野球の審判となって行きました。(基本的に親子が同一チームで活動するのを避けていましたのでグッドタイミング。)以降4年間(平成13年まで)、リトルシニアの審判で活動したのです。
 さて、愚息三兄弟の末路といえば、
 長男…中学校ではブラスバンド部、高校は珠算部、卒業後専門学校で「軟式野球部」。現在は「ボーリング」が恋人!会社から帰宅後や休日にボーリング場まわり。(球技には違いありませんが。)
 次男…中学校はブラスバンド部(兄貴に誘われただけのオンチ!)、高校は硬式テニス部、現在、結婚して夫婦での共働きで野球から離れる。
 三男坊…中学時代「リトルシニア」、高校は吹奏楽部(2年生時、保土ヶ谷球場の応援席で指揮の姿がTV放映される、しかし親はグランド上での雄姿を見たかった!)、卒業後、専門学校「軟式野球部」(長男と同じ学校で、安易な道。)
卒業後、一緒に審判の道に進むも、仕事が厳しくグランドに出る暇が無くなり休止状態。
 これでは全く、「第二のイチロー」どころか、「親父から逃げ出した愚息達」でした。


審判との出会い 7

ところで東俣野アローズ時代は、コーチだけでなく、審判としても重宝がられて多くの試合をやりました。(野球がわかってくると、本当に面白いです。)

そして、学童試合の経験から次第に「会社(大人)の野球」にも選手や審判として顔を出すようになりました。

 平成6年7月、偶然にも会社の野球大会に選手として出場した際、試合を担当した審判員から彼の所属している組織(当時の名称・明治神宮外苑審判協会)が毎年「アメリカの審判学校」へ行っている事実を知ったのです。

 その場で窓口の方(当時の協会会長であった栗原氏)を聞き出して連絡、すると翌年1月の渡米に誘って頂き、審判として念願で最終目標だった「審判学校」に行くことになります。
 実際、夢をこんなに早く実現出来るとは思ってもいませんでした、出会いとは本当に不思議なものです。

 大学時代、生意気にも「英語研究会(ESS)」に所属した私ですが、女子学生が多いサークルを狙って入部した不純な動機だったので、英会話の実力はサッパリ、しかし先輩たちの指導のお陰で外人アレルギーは全くありません。(金髪女性はもっとも得意??)
そして、アメリカは映画やTVで見慣れた憧れの国、ましてや「ベースボール」は、その国の国技となれば、私が野球にハマッタのは、当然の結果だったのでしょうか。

 平成7年1月行く先は、アメリカ・フロリダ・オーランド、(デズニーワールドやユニヴァーサルスタジオ・フロリダでも有名なところですが、正確には、その隣接のキッシミー市ヒューストン・アストロズ傘下のマイナーリーグチームの本拠地―そのホームグランドが講習場所でした。)

 その旅行中に「私の47回目の誕生日」や「阪神大震災」の事件が発生する等、様々な思い出が多いツアーとなりました。またこのツアーは、野球に対する大きな「カルチャーショック」として私の心を揺さぶったのでした。細かくは、次回にご紹介致しますが、このツアーで多くの方と出会い、以降 6年間にのべ3回も渡米することとは、そのとき全く考えても見ませんでした。


審判との出会い 8

1995年(平成7年)は、野茂 英雄氏がメジャーリーグに渡り、オールターゲーム出場・新人王を獲得し、日本の野球界に開国の扉を開けた記念の年でした。
そして個人的には、義父(妻の実父・奈良市在住)の病も重く、旅の途中での訃報になったらとの心配もある中、この機を逃したらチャンスは二度と無い覚悟で、会社の仕事にも眼をつぶって【審判学校ツアー参加】に申し込みをした人生の転換期の年でもありました。

 この時の妻もよく参加に同意してくれたと今も感謝の気持ちでいっぱいです。
 実際、義父はこのツアーの無事を待っていてくれたように、帰国10日後に亡くなりました。

 義父の容態を心配しながら、1月14日(土)朝、成田空港カウンター指定集合場所に出かけました。日本の各地から集まった全くの初対面のメンバー24名が、明治神宮審判協会の栗原氏の引率でアトランタ経由にてフロリダへ向け出発したのです。
 現地には、既に元セリーグ審判部長の富沢氏と旅行代理店の責任者がいて、我々を迎えてくれました、そして到着日の夕食は、ジム・エヴァンス校長先生主催の「歓迎会」が開かれたのです。当時彼は、アメリカンリーグの現役審判で、日本とアメリカ野球界の掛け橋的存在でした。
 私達が、ついた時期は既に「審判学校の本コース(1月の第1週から5週間)」が始まっていて、その合間に私達用に特別メニューで指導をしてくれたのです。
その時のインストラクターの中には、当時パリーグ審判(時際には2軍イースタンでの活動だった)平林氏や、その後中日「大豊」暴力事件で残念にも途中帰国した「マイク・デュメロ」もいました。また初日は、セリーグの現審判部長の井野氏もデイトナビーチから駆けつけてくれたのです。
 教室での座学・講義は、平林さんが通訳してくれて随分と助かりましたが、インサイドプロテクターは、当時の自分がアウトサイド(今では、日本でも見られなくなった座布団のエプロンみたいなもの)しか使用しておらず、カルチャーショックを受けたのでした。その時エヴァンス先生は、やさしくインサイドになった経由をベースボールの歴史と共に解説してくれました。
 グランドでの実技の講習においても、エヴァンス先生はじめ、インストラクターの教えは、まず誉めて、そして直すところ(欠点)を何故そうするのかの理由をしっかりと説明してくれるのです。
 それが全く理に叶っており、まさに「目からうろこ」の世界そのものです。今まで日本の審判諸先輩から教えられたものは、一体何であったのでしょうか?結局、封建時代の徒弟制度そのものに見えてきてしまいました。(体育会系の伝統?)
 ここアメリカは民主主義の国なのです、自由・平等が基本で「正義」を重んじているお国柄なのです。嗚呼、この感動・理解した事柄を誰かに伝えたい、しかし大きな問題が立ちふさがりました。それは、次回お話しましょう。

 受講は4日間半、帰路シカゴで1泊は、マイケル・ジョーダンのレストランでの食事やシカゴ・カプスの本拠地リグレーフィールド見学と大大感激・満足のツアーで帰国は、1月21日(土)。旅行代金は、 337,000円  代理店は(株)ジャルパックでした。


審判との出会い 9

1995年(平成7年)、最初の審判学校への渡米で多くを学んだ事柄は、残念ながら所属していた組織(軟式学童部)では、発揮することが出来ませんでした。

 また、その3年後に移籍した組織(リトルシニア)でもダメでした。何故なら、「4人制」を長きに渡り定着化させており、審判メカニックの基本となる「二人制」の必要性を理解出来る人が、ほとんどいなかったからです。

 さらに審判員の憧れ「アメリカ審判学校」留学者への嫉妬があり、知識を吸収しようとする姿勢どころか、全く反対の「従来の先輩・指導員からの教えが一番」と拒否するようになりました。実際、ツアー同行者で他府県の審判が、帰国後、「上層部から、勝手に渡米したとの理由だけで」干されました。

 新用具(インサイドプロテクター)は、即導入されましたが、本当に導入して欲しいのは、ソフト(審判員の本質、メカニックなど)の部分です。

 私は、草野球に楽しい審判を求めました。

2000年、アリゾナ(ピオリア)の審判クリニック(1週間の審判講習会)に参加した際、インターネットやE−メールの普及に驚き、帰国後のパソコン特訓で習得した結果、 インターネットを通じて新しい野球仲間と知り合えたのです。

その結果、2002年4月当時首都圏サタデーリーグの臼井会長と出会い、2007年6月まで多くの仲間と一緒に「首都圏野球審判協会」を育て上げてきました。

そして今は独立して別途この「湘南野球審判協会」の発展に尽力している最中。
やっと念願の地元での活動の道が開かれたのです。


審判との出会い 10

「芸は身を助ける」この諺を今しみじみ味わっています。
私も団塊の世代ですが、60歳定年の5年前に33年間の勤務した会社を早期退職してしまいました。
その決断をした大きな力は、家族の理解とこの野球審判というライフワークを見つけたからです。

ここまでのキャリアについては、今まで紹介した通り紆余曲折の道のりでしたし、今後もイバラの行く先かもしれません。
ただ、自分の好きなものを見つけられた喜びは、お金では買えないものです。

入社当時の人事部長の言葉が思い出されます。
「皆さん、趣味を持っていますか? 仕事一図も良いですが仕事人間になってはいけませんよ」
当時の私はこの言葉の意味が理解できませんでしたが、歳を重ねるうちに次第にわかるようになって来ました。

実際、会社生活の後半では、この野球審判が仕事の上でも取引先との関係で大いに役立ったのでした。

現代では 一つの専門技術だけでは生き残るのも大変な時代です。これからは最低3つ以上の特技を持ち、その複合技から新しい世界を作る時を迎えました。

また、現役の方や退職された方に、生涯損得抜きで様々な趣味に活躍されている最近の情報を観て、刺激を受けて私も勇気が湧いてきます。

人生や審判の先輩諸氏を前に恥ずかしい限りですが、
これからは、今迄知り合った審判仲間やチームの皆さん、そしてこれから出会う未知の仲間と共に「楽しい野球」を目指して益々審判活動に励みたいと感じています。

勇気と冒険これが男ロマンのエネルギーですが、焦らず急がずの健康が前提です。



<了>